呪いというものものしいタイトルから始まりましたが、、。今回は私たちみんなが持っている、自分自身のネガティブな思い込み、価値観についての記事になります。これを知ることで、いつも陥りがちなネガティブループや、何度も何度も思い返していやな気持になってしまう、ということに対して助けになるかもしれません。
今回は知っていると得する自分自身に対するネガティブな思い込みについてのお話です。
呪いについて
非機能的認知という言葉をご存じでしょうか?言葉だけ聞くととても難しいですね。簡単に言うと、自分自身に対するネガティブな思い込みや価値観のことを指しています。しかも、信念ともいえるレベルで本人にとっては”真実”です。無意識ですが、非常に強く信じている自分に対してのネガティブな思い込み、価値観のことです。冒頭でも少し触れましたが、この自分自身へのネガティブな思い込み、価値観(非機能的認知)というのは、あなたが世の中をどのように理解し、どのように反応するかにまで広範囲に影響を及ぼしています。つまり、人生に関わってくる概念になるのです。言うなれば、非機能的認知というのはあなたの行動や思考の根源とも言えます。
呪いについて具体的に解説
具体的に非機能的認知とはどんなものなのか、事例を通してみてみましょう。
Aさんは30歳の男性でサラリーマンです。努力家で周囲からの信頼も厚く、周囲からも評価されています。しかしAさんは、自分の些細なミスに落ち込んでしまい、しばらく引きずってしまいます。特に、そうしたときにはとことん落ち込み、最終的には「自分はダメだ、価値がない」という考えにいつもたどり着きます。周囲からするとAさんのミスは本当に些細なもので、それよりも普段から貢献してくれていることに対して評価しています。
では、詳しく見てみましょう。Aさんは周囲からの信頼も厚く、仕事も順調です。しかし、些細なミスで周囲も驚くレベルで落ち込んでしまいます。この場合、Aさんの落ち込み方というのは周囲の情報から考えても、「不相応」と考えられます。つまりAさん、落ち込みすぎじゃない?って具合です。起こったこと(些細なミス)に対して、反応(ひどく落ち込む)が大きすぎるのです。
ここで考えられるのが、起こったことに関して紐づいている非機能的認知の存在になります。
もしかすると勘づいている方もいるかもしれませんが、Aさんの非機能的認知というのは「自分は価値がない(ダメなやつだ)」という考えです。Aさんは無意識レベルで、自分自身に対して「オレは価値がない」という”真実”を持っています。
今回の些細なミスは、Aさんの非機能的認知を刺激してしまい、「ほーら、やっぱりオレは価値がないじゃないか」と、裏付ける理由になってしまうのでした。そういうときは、非機能的認知に対して反対のポジティブな要素があったとしても、無意味です。そんなことよりも、Aさんにとって、自分は価値がない、という”真実”を裏付ける理由の存在ほうが大切なのです。
そして、時間が経ち元気になったAさんは、もうミスをしないように研修に参加したり、自己研鑽にいそしみました。これはある意味、「自分は価値がない」という非機能的認知に対する補償を行っているのですが、また何か別のミスが起こると、ひどく落ち込んでしまうというループはなかなか変わりません。
他の非機能的認知の例
Aさんにとっての非機能的認知というのは「自分は価値がない」でした。そしてそれを裏付ける確からしい状況に陥ると、ほかのポジティブな要素が入ってこなくなります。
ほかに挙げるとすると、例えば以下になります
・私は愛されない(誰にも大切にしてもらえない)
・私は常に危険にさらされている
・私は価値がない(自分はダメなやつだ)
・自分には大きな欠陥がある(能力が足りない)
・自分は独りぼっちだ
などがありますが、ほかにもあるでしょう。
ちなみに、上に挙げたものを「私は~な世の中を求めている」と言い換えるとどうなるでしょうか
例えば、Aさんの「私は価値がない」と思っている人が、「私は~な世の中を求めている」と言い換えると・・・・・
もしかすると「私は、どんな人も大切にされる世の中を求めている」とか、「価値にしばられない無条件に受け入れられる世の中を求めている」とかでしょうか?
自分には大きな欠陥がある、というのを言い換えるとすると「ありのままを受け入れられる世の中を求めている」とかでしょうか?
言い換えの理由
非機能的認知というのは、修正するにはとても労力が必要で専門家の力が必要かもしれません。ただ、自分がどんな非機能的認知を持っていて、どんなときに悪影響を受けるのかを知っているのと、知らないのとでは大きな差が生まれます。
また、非機能的認知とは、「機能的ではない認知」という意味ですが、上記のように言い換えることで、自分がプラスに力を発揮しやすいテーマというのが浮かんでくるかもしれません。その実現のために人生を賭けてください、とは言いませんが、どこかで何かの役に立つときが来るかもしれません。
これまで非機能的認知の無意識的な圧倒的なネガティブパワーについて述べてきましたが、それを裏返して言い換えることで、同じだけのパワーになるかもしれません。
つまり言い換える理由としては、非機能的認知をないものとして無視したり抑圧するのではなく、「在るもの」として、個性の一部として受け入れやすくなれば良いな、ということがあります。
言うは易し、ですがこの作業は、とても大切だと感じています。
まとめ
非機能的認知について今回は述べてきました。まさに呪いという感じですが、日常生活のさまざまなところで顔を出してきます。きっと、非機能的認知がこれほど強力に作用する理由は人間の進化の過程のどこかであったのでしょうが、現代を生きる私たちにとっては少し厄介な部分もあります。うまく付き合っていくことが大切ですが、今回は紹介だけって感じでお願いします。またいろいろな方法をご紹介する記事を書きたいと思います。
皆様の理解の一助になれば幸いです。
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